「また来たのか」。中国公船による領海侵入と聞くといつもこの言葉が脳裏に浮かぶ。海上保安庁によると、平成24年の尖閣諸島国有化以降、毎年30~50件侵入事案が発生しているそうだ。そして防衛省は、こうした中国公船の領海侵入事案を事例として挙げつつ、日本の安全保障環境について「いわゆるグレーゾーンの事態が増加・長期化する傾向にある」と評している。しかし、「グレーゾーンの事態」の有する性質はどのようなもので、中国の目的や用いる手段は何なのか。冒頭の言葉に続いて表れるこうした疑問を専門的に解説してくれる文献が中々見当たらない。
本書は、海軍戦争大学で2017年5月2日から3日にかけて開催された“China Maritime Studies Institute’s Conference”の成果を踏まえ、中国がグレーゾーン事態において展開する作戦活動の性質や手段を専門に取り扱った、稀有な論文集である。編者の一人Andrew.S.Ericksonはアメリカ海軍戦争大学China Maritime Studies Instituteの戦略学教授、そして中国海軍の専門家として数々の文献・論文を世に送り出してきた人物である。
本書では、グレーゾーン事態における作戦活動を、①国際秩序の変革を目的とし、②曖昧さを有し、そして③漸進的な活動と定義している。その上で、海上民兵や中国海警局が作戦活動を展開しつつ、人民解放軍海軍が背後に控え、対立が激化した際に中国としての国家的意思と強制力を示すのが、具体的な作戦活動の在り方だとする。
グレーゾーン事態における作戦活動の鍵は作戦活動主体間の連携だが、課題が少なくないという。例えば、中国海警局は、分散されていた海上保安機関のうち4機関が統合して設立された機関であるが、人員の技能や採用訓練システムの統一化、任務や役割を定義する法制度の整備が大きな課題となっている。また海上民兵は、人民解放軍と地方政府の二重指導の下に服する民間人(海運業者の社員や漁師など)から構成されるが、平時戦時における政軍間の連携メカニズム構築が課題となっている。
装備面での課題も少なくない。中国海警局では老朽化した船舶の更新や陸上施設の整理再編などが、海上民兵では人民解放軍海軍に合わせた装備の更新・配備費用の増大などが課題となっている。
本書を見ると、報道で見る中国船舶の勇ましい姿からは想像しがたい多くの課題を抱えている事が分かるが、かといってこれを抑止し得るかというとそう簡単にはいかない。漸進的な活動、軍事力ではない実力の行使という特徴を有するグレーゾーン事態は、抑止政策とそれが破綻した時の報復の信憑性を曖昧にしてしまう。そしてその曖昧さは、エスカレーションによる戦争勃発の危機感を薄れさせ、現場での中国側の行動をますます過激にする危険性を生み出している。しかし、過激化する活動を抑えようと軍事力を展開させれば、中国側も人民解放軍海軍が前面に展開することとなり、事態がエスカレーションして双方の軍事力が直接衝突するという矛盾に陥ってしまう。
これまで見てきたように、本書の各論文が明らかにしているのは、単に軍事力を備えるのみでは対処しきれない、中国のグレーゾーン事態における作戦行動の複雑さである。「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」とは孫子の言葉であるが、本書の語るテーマの理解は、今日の日本にこそ最も必要と思われる。(了)